購入時に役立つ 監視カメラ用語集3


固定焦点レンズとは?

焦点距離が一定で、画角も一定のレンズのことで、単焦点レンズ、マニュアルレンズともいう。 セリ売買により売買取引を行う場合に、1つの値段でその立会中の売買約定を成立させる方法。 「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」 外国為替証拠金取引 はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。 また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。 「元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候」(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地にFX を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)。 「大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』より抜粋)。 しかし、日経225 と結んでいた大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は外国為替などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。 「年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分 にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)。 家光が「生まれながらの将軍」を自称したのは、政宗の助言によるものだったと言われている。政宗は軍略、野望ともに最も危険視されていた外様の代表格であるから、それを逆手にとり自ら大名筆頭として頭を下げる事で、幕府に対し有無を言わせない立場を確立した訳である。幕府、家光に対しては恩を売れるし、またその他大名家に対しても伊達の強さを印象づける形になり、どう転んでも損のない大胆な戦略という事になる。 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過(馬上少年過ぐ)、世平白髪多(世平らかにして白髪多し)、残躯天所赦(残躯天の赦す所)、不楽是如何。」というものだが、最後の句を「楽しまずんば是いかん」と読むか「楽しまず是如何に」と読むかで全く解釈が違ってしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われ、この辺は永遠の謎となっている。 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。 上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。 この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や志(天文・礼楽などの記録)が存在しない。 「魏書」東夷伝には「魏志倭人伝」と通称される部分があり、そこに邪馬台国の記述が見られる。魏のみに本紀を設けているように、三国のうち魏を正統としている。しかし、魏を正統とする類書は『魏書』など魏単独の表題とし、蜀漢や呉は独立した扱いを受けていない。また、南北朝時代、中国の南半分しか支配していない東晋を扱った正史『晉書』も、北朝の諸国家はすべて「載記」(地方の覇者の伝記)として扱い、やはり独立した扱いを受けていない。逆に、北朝の北魏を正統とした『魏書』では、南朝の東晋や宋などの皇帝の伝記が、やはり列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない。 三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。また、三国がそれぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという。 なお、『蜀書』の末尾には本伝の補足として楊戯の『季漢輔臣賛』を全文収載している。これについて銭大マ『三国志弁疑序』では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(漢の末期)と言う言葉を残したのは、蜀王朝が実際は漢王朝であることを明らかにしたものだ。」として陳寿の故国顕彰の表れであると主張している。 現存する刊本で最古期のものは、紹興本(紹興年間(1131年〜1162年)の刻版)と紹煕本(紹煕年間(1190年〜1194年)の刻版)である。ただし、トルファン市で「呉主伝」「虞翻陸績張温伝」「臧洪伝」の一部、敦煌市で「歩隲伝」の一部を記した木簡が発掘されており、『三国志』が著された晋代の写本であると目されている。 陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。(陳?『東塾読書記』「論三国」では史料の少ない蜀漢が見劣りするので全体の量を削ったと推測している)そこで、南北朝時代の宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉六年(西暦429年)上表と共に提出した。裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものが少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後のできごとも補われている(たとえば、曹奐の伝記である「陳留王紀」は、執筆時に曹奐が存命中だったので晋に禅譲したところで記事が終わっている。裴松之の注では、曹奐の没年と諡が補われている)。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。